麻雀ってゲームは考えれば考えるほど、楽に…さほど大変な努力なども必要なく、上達したり実力を身に付けられるゲームという気がする。

確かに自分が今まで辿って来た道のりの中で、その道中では答えに迷ったりとか「どうすればいいか分からない」って事は何度もあった。
だけど一旦その解さえ分かってしまえば…それが分かった今となっては「何でこんな単純な事が分からなかったんだろう」などと
不思議に思う事も多い。今だからそう思えるのかも知れないけど(まぁ今だって完全に「強くなれた」とはとても言えない状態だけど)
やっぱり今の率直な感覚としては、難しい知識だの経験だのという要素を必要としないゲームじゃないか気がしている。

だけど実際には(「ある程度以上の」という限定した話であっても)相応に理にかなった打ち方が出来る人間なんて、
リアルであれネットであれ、ごく限られた数の人間しかいない。
例えば様々な麻雀ゲームなどのランキングとか戦績などを見てみても…優れた成績を残せる人間ってのは常にごく一部だけだ。
(もちろん麻雀に対する考え方とか取り組み方なんて個人によって千差万別だし、一概にどうこう言えるものでもないとは思うけど)

ここで改めて考えてみると、麻雀ってゲームは本当に、その実力向上の道中に道を外しやすいゲームだという事と、
一度その道を外れてしまうとなかなか矯正する事が出来なくなるという事だ。
この麻雀の持つゲーム性の「厄介さ」が、常に強い打ち手が限られてしまうという状況に繋がると思う。

麻雀は、本当に勘違いしやすい…と言うか、勘違いする為にあるゲームなんじゃないかとさえ思えるくらいなんだけど、
とにかく自分の実力が短期間では全く反映されないし、ゲーム中のミスでさえそのほとんどは結果に反映さえされず、
しかもミスが結果的には成功を呼ぶ事もあったりして、ミスに対する自覚とか理解ってのが本当に起こりにくい。

おまけにそのゲーム性によって、デタラメな定石とかセオリーなどがどんどん生まれてしまって、さらに打ち手を迷わせる。
今になって思うと、麻雀で散々言われていたその類の基本だのセオリーだのって、本当に自分の実力向上の阻害しかしていなかった、
自分に取っては「邪魔でかつ苦しめられたもの」という感覚しかない。
(だから何切る掲示板とかで「これがセオリー」とか「当然の一打」とか言われると無条件に腹が立って反論したくなるw)

しかも一度間違った方法論(以前に日記で書いたような方法論ではなくて、もっと基本的な事ね)で経験を積んでしまうと、
思い込みとか勘違いが重なり合ってますます矯正が難しくなる。麻雀ほど、経験って言葉がアテにならない&役に立たないゲームはない。


昔の日記にも書いた通り、自分は飯田橋東風荘というノーレート雀荘に長い間足を運んでいた。
ここの雀荘は基本的には麻雀そのものが好きな人間が多く集まっていて…それに他人の実力に関しては冷静な見方が出来る人間が多くて
(誰々は俺より下手とかそういう話にはほとんどならなかったし、だからこそ自分も長く居る事が出来たんだろうけど)
ある程度良い雰囲気で麻雀を楽しめていたんだけど、やはりこと「自分自身の実力」に関しては、ほとんどの人間が勘違い状態とでも言うか、
本来の実力よりも高く見積もっていた。Rateという実力偏差が出るにも関わらず、少し不調になれば「Rateなんて気にして打ってない」とか
「ノーレートで勝ったら他のフリーで勝てなくなる」などという典型的な逃げ言葉など、何度耳にしたか分からないほどだ。

そのタイプ…自分の実力を過信したタイプの人間に共通する事柄とか特徴がある。
皆、結果に対して常に傲慢な態度しか取れない・傲慢な見方しか出来ない人間だった。
常に自分自身に逃げ道を持っていて、「違うルールなら…」とか「本来の体調なら…」とか逃げ口上を言う事だけは人一倍素早い。
負けを負けと認める事が出来ない。その単純な事が出来ないだけで、同じような失敗と言い訳を何度も繰り返していた。

そういう人間を多く見てきたからかも知れないけど、最近は麻雀覚えたてのような人と卓を囲む事があっても、結果に対する相手の
言動とか様子を見ただけで、結構早い段階から「この人は一定のレベルまでで頭打ちだな」とか「この人は将来相当強くなりそうだな」
とか言う将来性の違いみたいなものが分かるようになってきた気がする。
(まぁ実際、後者のパターンに該当する人ってほとんどいないけど)


自分は相対的に以前よりは強くなったという自覚はあるけど、当然「絶対評価的に」強くなったという感覚はほとんど無いに等しい。
こういう勘違いした人間を見るにつけ、常に自分自身は結果に対して謙虚であり続けていたいと思う。
自分はまだまだ強くなりたいし、強くなると言う事を諦めてもいないから。


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