「麻雀に、流れは存在するか?」

何を今さらって感じの話かも知れないけど、麻雀に関係するほとんどの場面で語られるであろうこのネタについて、
この日記ではある程度自分自身の色合いとかスタンスを(ダイレクトではないにせよ)書いてきた面はあるんだけど、
この話を主題にして、深いレベルで?考えとかを書いた事もないんで…今日はこの話を改めて考えてみようかと。

ただ自分自身の結論としてはもう明確に近い形に出ていて(この日記の傾向を考えればほとんど予想がつくとは思うけど)、
「好調不調とかツキ不ヅキは確率の範囲内で当然存在するし、それを流れと定義するならば流れはあるという事になるけど
それをプレイヤーの意図で操作する事は不可能だしあり得ない事だと思っていて、後者を流れと定義するなら流れはない」
という考えを、自分は常に持っている。
まぁ自分の成長過程で得てきた物を考えれば、こういう思考になって当然かなという気も(我ながら)しているけどね。

だけど正直言って自分自身のこういった思想とか考えなんて、「ある意味」本当にどうでもいい事だと思う。
この考え方を誰かに押し付ける気とか全くないし、この事について誰かと議論とか、そんなのは全くと言っていいほどやる気が起こらない。

だって、色んな考え方をする人間が居たほうが面白いから。
皆が皆共通の思想とか考え方しか持ってなかったり、その手法でしか強くなれなかったりじゃ個性もクソもないし、単純につまらんと思う。

これは何も流れの有無に限った話でもなくて、例えば他に打ち手の個性としてよく挙げられるのが「攻撃型&守備型」とか
「面前派&鳴き派」での分類だけど、例として東風超卓の成績上位者を思い浮かべてみると、皆この辺りの発想とか打ち方が異なる。
よく何切るとかを見ていても思うんだけど、誰と誰の打ち方とか考え方は似ているとか…そういうのってほとんど無いんじゃないんだろうか。
本当に皆が皆バラバラの手法で最強を目指しているって感じなんだけど、ただそれこそが麻雀の魅力の一つじゃないのかなって気がする。

ある特定の方法論を使わなければ最強水準になれないゲームではなくて、色んな方法論を持つ打ち手が激突してゲームを行う…
これって改めて言うのも何だけど、相当面白いし楽しい事だと思う。
そこには流れ論者がいて非流れ論者がいて、その上に攻撃型がいて鳴き派がいて…とか、個性があるだけドラマも生まれる訳で、
なにもこういうゲームとしての面白味をわざわざ打ち消してしまうような行為…ある特定の主張を強硬に押し付けたりする行為を
する必要性なんて全く感じないし、ただ各人が勝手に目指すものを見つけて実力を付けていけばいいだけの話って気がする。

最強(水準)になる為の方法は一つじゃない。
自分は自分が信じた方法論の一つをただ純粋に磨いて鍛え上げて、そしてある一つの形を完成出来ればそれが最高だと思っている。


正直言って個人的には「流れを強硬に否定する人間(またはその逆)」でさえ、居たほうが面白いとは思うけど。
ただ自分自身に執拗に絡まれるのは面倒だからイヤだけどね。笑


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