東風戦と東南戦での状況判断の違いについて、心理的な部分で最近結構考える事がある。

自分は元々「東風戦」というゲームスタイルが好きではなかった。
運の要素が強すぎる…って先入観が「東風戦=アガった者勝ち」という固定観念を作り上げていたんだけど、ある時期を境に…
多分麻雀で勝つという事その物を結構真剣に考え始めた頃からだと思うんだけど、ゲームルールが違うから勝てないとか、
こんなルールは麻雀じゃないとか、いちいち文句ばかり言う連中がとてつもなく胡散臭く見え始めてきて…
与えられたルールに対応してさらに勝つ人間こそが本当の強者なんじゃないのか?と思うようになってきた。
それでどんなルールでも打てるようになりたいという考えの元、東風戦にも、そして赤ありのチップ麻雀にも手を出すようになった。
(多少意味合いは異なるけど、自分がゲーセンの麻雀を打つのも「**が出来ない」って事を一つでも無くしたいって思いがある)

東風戦を打って実際に感じたのは、東風戦は運だけどころか、東南戦よりよほどシビアな…ミスのない選択を強いられるって事だった。
(まぁこの話は今回の主題ではないんで、これ以上は書かないけど)

確かに東風戦の方が成績がばらつくし、好不調の波が東南戦オンリーの時よりも大きく出る。
自分は飯田橋東風荘で東風戦と東南戦をそれぞれ約2000試合打ったけど、勝率と平均順位はいずれも東南戦の方が高かった。
(まぁ自分が東南戦中心で打ってきたもんで、東風戦にちゃんと対応出来ていないだけという可能性もあるけど)

ただ今回の話はその「東風戦のシビアさ云々」ではなくて、逆に東風戦を長く打って来た事で見えてきたのが
「東南戦での状況判断って、その純粋な判断以外に心理的な色がかかったものになっているんじゃないか?」という部分。

以前にも少し日記で書いたと思うけど、東風戦は短期決戦という心構えがある分、たとえば東パツで跳満親かぶりとかを食らったとしても
「しょうがない、とりあえず残り3局でまずはラスの回避を考えよう」という心理的な切り替えが比較的容易に出来る。
いや、実際は「出来てしまう」と言った方が正しいかも知れない。
そういう不可避の失点とか不利な状況が多すぎて、「うわーこんな展開ひでぇよ」とかいちいち考えてもいられない。

でも、東南戦の場合はどうだろう。
局数が多い分、それ相応の展開変化があるのは当たり前の話ではあるんだけど…例えば南2局まで一方的な、自分の思い通りの展開で
圧倒的リードを確保していたにも関わらず、南3で親が理不尽に連荘して差を極限まで詰められ、また先制されてしまった…
こういう局面で「本当にこの与えられた展開から正確に有利不利を判別して、押し引きが出来ているんだろうか…?」と思う。
「今まで俺中心の展開だったのに何でこうなるんだ!」という思いが勝って、無理な勝負をしたり判断にズレが生まれてないか、とね。

元々そういう要素を常に考慮しつつ打つ、という打ち手であれば何の問題もないだろう。それがその当人の打ち方なのだから。
その行為自体を否定するつもりは全くない。

だけど、自分という打ち手は…少なくとも今まで「与えられた状況下で最良の判断を求める」という、ただそのデジタル的な判断だけを
洗練させるべく追い求めてきて、その打ち方をいかなる時でも変えないってのが自分の形として根本的に存在している訳で。
それをこういう展開の遷移の影響で判断がブレるという事があると、自分自身が最良としてきた打ち方を自分で否定する事になる。

まぁ、そういう展開の変化そのものが東南戦の醍醐味でもあると言えばそうなんだけどね。
山あり谷ありだからこそ面白いって部分もあるんだけど、自分の打ち方まで同じように山あり谷ありじゃしょうがない。
東風戦で「短期決戦なんだからしょうがない」という発想が出来るんなら、東南戦で「長丁場なんだから何があってもおかしくない」
という発想もまた、同じように出来なきゃダメだろう。
実際はその思い自体は常に頭の片隅に一応あるんだけど、展開が長い分…どうしても余計な感情が加味されたモノに変貌してしまう。

もっと冷静で正確な判断が出来るようになりたいとつくづく思う。
それが出来るようになって初めて、それより先の「展開を考慮した打ち方」を改めて検討できればいいと思っている。


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